4年目の最後のブログを読み、みんな自分の本音を書けていて心底すごいなと感じる。普通に感動した。自分自身もこの最後のブログで本音を書きたいと思っているのだが、うまく書けるのだろうか。
稚拙な文章になるとは思いますが、最後までお付き合いいただけると幸いです。
家族ぐらいしか知らないと思うのだが、実はかなり人目を気にして生きている。他人からどう思われているのだろうといつも気がかりであり、常に他人によく思われたいと考えている節がある。自分の中の本音で必ずしも生きているわけではなく、他人が良いと思うことや自分の評価や評判が上がるような言動を選択してしまいがちである。この性格が全てにおいて悪であるとは思わないが、弊害として自分の本音や考えを相手に伝えることがうまくできない。自分の本当に望む行動が取れない。そもそも自分の本音が何なのか、わからないことがよくある。
そんな性格の自分は、北大サッカー部においてはいつでも強い"多賀遼太郎"でいようとしていた。後述する「桐光学園」が出身校であることも強い自分であることを後押ししてた。サッカーが上手いとはお世辞にも言えない自分を、No.1であると言い聞かせてプレーしていた。正直、かなり強気に振る舞っていた。時には審判に歯向かい、相手と衝突し、チームメイトにも厳しい言葉を浴びせた。他人にとって"すごい人"であれるような行動を心がけていた。しかし、学年が上がるにつれて、特に最上級生になってこんなことを言われるようになった。
「丸くなった」
大学一年生の頃からの自分を知っているサッカー部の人間はよくこう言う。この言葉を言われる理由は自分の中でははっきりとしている。少し過去の話をする。
出身高校が「桐光学園」の自分はよくも悪くもまずこの高校名が先行する。それはここ北海道の地でもそうであった。そしてこの「桐光学園」はサッカーにおいて自分の思考、思想にとてつもなく大きな影響を与えている。
自分で言うのも何だが、「桐光学園」には本当にすごい選手が沢山いた。代表に選ばれる人、プロになる人、あり得ないくらい努力できる人。同じ「桐光学園」に所属しているとはいえ、比較対象にもならないくらいの差があった。自分にも厳しい人が多かったので、他人への要求もとりわけ凄まじかった。自分はそんな環境を最初のうちはとても苦しいものに感じていた。
この中で生きていくのはとても大変なことで、高校一年生の頃は特に辛かった記憶がある。特に目標もなく、辛い練習を誰に何も言われないようにやり過ごす毎日。正直、何回も辞めたいと思った。これは確実に自分の本音であった。そもそも、他人軸で生きている自分の意志・精神が強いわけがなかった。
一年生の時、ある練習の中の一つのタスクをサボったことがある。妥協した。サッカーの練習の中で明確に自分の意志でサボったのは後にも先にもこの時だけである。練習後、強烈な後悔に苛まれたことを覚えている。
「桐光学園」を選んで入学した。選んだ理由も中学三年生の時の自分が、他人からすごいと思われる高校に入りたい!と思っていたことも間違いなく関係している。他人軸で選んだことは否めない。しかし、最終的には自分の意思で「桐光学園」という船に乗った者が、死に物狂いで練習する、全国優勝を本気で狙うチームメイトを横目に、妥協したのだ。自分自身に大きな失望と怒りを感じた。この事実は自分を大きく変化させる要因となった。この船の中で生きていく。やめるわけにはいかない。自分を何とかしなくてはいけないと本気で思った。他人軸で生きる自分の中で、最後の最後のところで残ってくれていた自分自身の「プライド」だった。
その後は自分を武装する日々だった。練習を全力でやる自分を"演じた"。他人に厳しく要求する自分を"演じた"。夜遅くまで居残り、自主練をする自分を"演じた"。負けず嫌いな自分を"演じた"。そうすることがこの船で生き残る唯一の方法だった。
結果としてこの方法はうまくいった。最終的にはメンバーに選ばれ、公式戦にも出場できた。しかし、この自分に満足していた。レギュラーになろうとは思っていなかった。むしろ試合に出ることを怖がっていたように思う。結局は"演じていた"だけであって、武装しただけであって、本来の自分自身の姿であるとは全くもって言えなかった。
そんな「桐光学園」時代だった。
話は戻り、北大サッカー部に入部してから主将になるまで自分は、この「桐光学園」での自分を再び"演じていた"。他人に強く当たり、ストイックな風を装っていた。勝負事に負ければ異常に悔しがり、負けを誰かになすりつけるように厳しく叱責した。「桐光学園」時代はそれでチームがうまく回っていた。多くの試合で勝つことができていた。自分の中でそのように振る舞うことが"正解"であるかのように思い込んでいた。
そんな考えを改める出来事が起きた。
降格だ。
降格という事実は「桐光学園」時代からの自分の考えを真っ向から否定するのに十分だった。この降格のタイミングが代替わりの時であり、自分の主将就任を意味した。大きく悩んだ時期でもあった。自分は主将としてどう振る舞うべきなのか、チームメイトにどのような言葉をかけるべきなのか。何日も考えていた。そして結論を出した。
「厳しすぎる環境は自分と同じように"本音"でサッカーできない人を生んでしまう」
主将になり、全体を仕切るようになってからは自分の考えを押し付けるのではなく、部員自身が自ら考えて答えを導けるように出来る限りのアプローチをしようと思っていた。東京遠征での清雲さんの講演も自分に大きな影響を与えた。それは時には厳しい言葉もかけるし、敢えて厳しい環境を作ることも含まれる。ただ、自分の本音に従って行動できるような集団、チームを作りたいと思っていた。
この考えができるようになってからが、自分にとって「北海道大学」時代の始まりであり、自分自身が"本心"でサッカーができていると感じた瞬間だった。
自分が主将になってから引退までは本当にあっという間だった。今までで一番サッカーが楽しかったし、試合のある週末が本当に楽しみだった。コロナの影響もあってサッカーの時間が多く失われたけど、そんなことも忘れさせてくれるくらい幸せな時間だったなと引退した今となっては思う。
「丸くなった」
違う。
厳しい要求、声は確かに減った。ただ、自分にも他人にも要求のレベルは遥かに上がった。北大サッカー部のみんなが自分を変えてくれた。
幼稚園から大学まで様々なレベル、沢山のユニークな人と共にサッカーをしてきた。
そんな自分にとってサッカーとは、結局、自分自身が上手くなり、満足のいくプレーができればいいというそんな単純なものではなかった。
サッカーを通じて仲間と知り合い、日常では味わえないような喜びや悔しさを共有できるからこそ大好きなスポーツなのである。サッカーが自分とみんなを繋いでくれる。サッカーが日常をより楽しく、幸せにしてくれる、それこそが自分がサッカーを続ける理由だった。プロサッカー選手になれなくたってサッカーを続けていきたいと思える理由だった。自分自身だけが上手くなるためにやるサッカーは全く意味をなさないサッカーだった。
サッカーで大事なのは当たり前のように毎日一緒にサッカーをする仲間なのであり、それが自分にとっては北大サッカー部だった。
「サッカーが主役なのではない。仲間が主役なのだ。」
主将となり、大学四年生になって初めて気づくことができた。きっと北大サッカー部に入っていなかったら一生わからないままだったことのように思う。
最後に、感謝を述べて最後のブログを締めたい。まずは今シーズンも多大なるサポートをしてくださったOB・OGの皆様、ありがとうございました。コロナにより、我々のプレーしている姿を届けることはできませんでしたが、来季以降にその意志は受け継がれているので楽しみにしていてください。
いついかなる時、どんな結果であっても常に一番近くで支えてくれた誠先生には感謝してもしきれません。常に学生思いで、部に対して何か出来ることはないかと、いつも声をかけてくださいました。忙しい合間をぬって練習に顔を出し、試合で共に闘い、部員全員と面談してくださる、こんな素晴らしい監督はどこを見渡しても存在しません。本当にありがとうございました。
そして、同期。8人しかいなかったけど、みんなで一緒にいる時はバカみたいに騒いで、アホみたいにふざけてる、ホントにうるさい年目だった。その反面、サッカーになればめちゃくちゃアツく、真摯に取り組む姿は後輩たちに大きな何かを残せたと思う。君たちがいたからこそ2部優勝を果たせたし、幸せな、かけがえのない4年間だった。本当にありがとう。
大学までサッカーを続けさせてくれた両親。高校までは自分の試合のほとんどを観戦に来てくれて、本当に力になった。めちゃくちゃ感謝してる。大学は北海道ということもあり、実家からかなり離れていたからなかなか試合を見せてあげられなかったのが少し残念。
ただ、あんまり見に来れなかったから、もし北大サッカー部について聞かれたらこう言うと思う。
「見てほしいんだ。これが自分がキャプテンとして作り上げたチームで、これまでのサッカー人生で一番最高のチームなんだよ」
ってね。
#4 多賀遼太郎
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